厨チューツアー・ファイナル

約2ヶ月半ぶりに上京し、約2ヶ月半ぶりに可愛くてかっこよくてエモーショナルで信じられないぶっこわれた美しいバンドを見た。

その感想です。

渋谷クラブクアトロに初めて行って(というか、私にとってのライブハウスとはほとんどが得てして初めてのものなのだが)、後ろで階段の上に登っていた。

レッドクロスの景色とは一変して、ステージが少し遠いかわりに全体を見渡せた。

コースさんが後ろにいて前半はものすごく緊張していた。

今回、無理矢理このテスト前の時期にライブに行ったのは、挫・人間のファイナルを見るというのはさることながら、除霊をするためだった。

みんな、除霊した?

結論から言うと、私は完璧にゼロにすることはできなかった……語弊があるかな、別に除霊はそういうのじゃないよね。だけど、純粋に払底できなかった思いはまだある。

また苦しむことになるのかな、なんて思いながら、何曲か泣きそうになって聴いた。

でも、恋の奴隷のとき、なんで何度も除霊が行われるのかっていう理由を考えた。初めて来た人のためであるっていうのもそうだけど、でも、私は「初恋」なんてものは何度取り去ったって戻ってくるものだからだ、と思った。

何度消えろと願ったって、何度でも戻ってくる。それは苦しいのに綺麗すぎて、私たちは嫌なことを愚痴るみたいには捨てることができない。そこにつけ込まれて何度でもついてくる初恋に振り回される私たちは本当に「恋の奴隷」だし、恋の奴隷からの解放宣言が除霊という行為なのだと思う。

でも、脱走した奴隷は奴隷の烙印を押されたせいで、また奴隷市で売られるんだ。ほら、また取り憑かれるでしょ?

それでも、何度逃げ出してもどうしようもなくて、死ぬまで続くかもしれない不自由からの一瞬の脱出が、心を、身体を救っている。前が見えないから、一瞬見えた光を掴んで、それでまた生きていく。そういう生き方のために除霊をするし、挫・人間のライブに行くんだと思う。

ドラマとベースが腹に響くのが、ギターが繊細に奏でられるのが、みんなが笑うのが、あの2時間弱の全部で、一瞬を永遠にするすべての魔法だった。夢も魔法も奇跡も信じられなくなってしまうような人生で、夢でも魔法でも奇跡でもなく挫・人間というバンドが存在して、確かに現実という灰色の世界を美しく彩っている。

その事実がこの世界で一番大切だと思った。 セトリを覚えておこうとしたのに、全てが途中で消えて、挫・人間に出会ったあの曲のリズムに乗った(つもりだった。ダンスのセンスなし・リズムをとるという行為がとても苦手、という資格を持っているため、正しく動けていたとは思えない……)。 全身が熱くて、誰もが熱狂して、私は世界中から引きずってきた全部の不幸を背負って歩く覚悟を決めた。鳴り響く楽器の音も下川くんの歌声も、音というより空気として私の体内に流れ込んで生きる力をくれた。 私のつまらなくてどうしようもなく単調な毎日は、終止符を打たれた。生きている理由、死なない理由、そんなのは分からない。死にたくないから生きてるのかもしれないけど、生きたくないから死にたいのも確かだ。世界をぶっ壊してやるという気持ちもあるし、こんな汚くて残酷で優しい世界を壊すことなんてできないとも思う。葛藤は消えない。その葛藤が人と私の溝を深めて、いつしか何も本当なんてなかったかのように汚い大人になっていくんだろう、そう、このまま大人になれば。 つまらないをつまらないと思うのは良いことだと思う。だけど、それは辛い。つまらないの連続が孤独を生んで、孤独な世界で私の味方は誰もいない。 でも、私がつまらないと思っている世界の裏側には、いつも彼らがいる。私をいつでも救ってくれる彼らがいる。このツアーファイナルで、そんなことに気付かされて、私のつまらない日常は終止符を打たれた、のだと思う。 世界一かっこいいギターを弾く夏目くんを見て、私はいつか絶対にパーマをかけることを誓った(憧れのブライアン・メイ並みのパーマをかけられるという利点もある)。あと、近いうちにつけまつげを買って夏目創太化するという目標もある。そのときは写真をあげるかも。 最後に。 挫・人間、下川リヲ様、夏目創太様、アベマコト様、ありったけの感謝と尊敬を込めて。 また会いましょう。

セブンイレブンみたいなもの

セブンイレブンみたいなものだと思う、正直。

何が、どこがとか何とか、具体的にはよくわからないけれど、思いだした頃に好きになるような、「ファミマよりセブン派だな」みたいな、その場のノリの発言で好きなことを思い出す。

そんな人と久しぶりにお話しして、私は曖昧な笑顔と一緒に、最近もらった「乾電池でロックな音が出るギター」と「2弦が鳴らないアコギでのFコード」について喋った。笑顔が曖昧なのはいつものことだし、口下手なのもいつものことだけど、今日のはあまりにも酷かったな、と思う。

4日後の挫・人間のファイナルに際して、私はその人のことについて、色々考えどころがあります。
約束の青が聴けたら嬉しい。バラバラBABYも嬉しい。品がねえ 萎えも嬉しい。ゲームボーイズメモリーが聴けたなら、ツアーの期間に起こったこと全部を閉じ込めて綺麗な思い出にしておける気がする。ちゃんと除霊しような。
忘れる必要はないし忘れられるわけないし、挫・人間好きならそれでもいいかもしれないけど、現実と「思い出」にするべきものの区別はつけなきゃね。



セブンイレブンみたいなあなた、宝箱の中に綺麗にしまっておきます。

一過性の自殺願望

さまざまな事象が重なり「フラクタル」のことや「モンキーとエイプの違い」などを知ることになって、わたしは周囲に披露する知識が少し増えた。

 

知識が増えるほどに、わたしは「今現在」の世界観を失っていく感じがする…… 例えばフラクタル図形のヒルベルト曲線について、わたしの周囲の「現在世界」観の中ではそんな概念の存在はあまりに希薄だ。ヒルベルト曲線のほかにもコッホ曲線とかいうのものもあるが、今わたしの周りの世界観でこの概念を適用しているのは多分わたしだけ…… 「現在世界」の世界観の中に存在していない概念を思い浮かべているわたしは、もう、この世界観を失ってしまったも当然ではないのか……? 自分が今までおもっていた世界観の上に新しい知識が加わると、それまでの世界観は失われてしまう。そして、新しい世界観を作り上げる。と、いうことを、みんな当たり前だと思っているだろうけど、わたしはモンキーとエイプの違いとかフラクタル図形からそんなことを考えたらしいです。

 

だからわたしは毎回本を読むたび、インターネットにアクセスするたび、新しい知識を得て、世界観を作り直しているっぽいです。みんなもそうだから、感情が一過性のものだったりするし、ある時は死にたいって思って、ある時は死にたくないって思うんだと思う…… だから、わたしはよく「この前に死にたいって言ってたくせに」って言われるんですけど、そんなの当たり前じゃないですか。死にたいですよ、その時は。でも今は、新しい知識を取り入れて、世界観を組み替えてるんだから。そんなの変わるに決まってる。そんなね、意見の普遍性を求めるようなやつはね、無視しようぜ。そんなやつは何も進歩してないんだ、新しい知識を吸収できてないだけのつまんないやつ。 死にたいときは死にたい、死にたくないときは死にたくない。オールオッケーだ。人間が一過性自殺願望を持つことは、成長してる証です。そうおもってる……

 

 

 

とにかく人生がしんどくて友達にも会いたくなくて、ただギターを練習してる毎日だ…… ここ最近で漫然と見た映画・書籍を記録しておく。

 

「AMY」エイミー・ワインハウスドキュメンタリー映画。27歳。

 

「駅舎にて/ヴーダディヴァ・ボース」物書きだけが切なくてしんどくて良かった。

 

アメリ」とにかく面白かった。

 

 

最近考えさせられたのが読書の意義についてなんだけど、簡単に答えを知らないからこそ得ることが大きいからではないかな…… まあそんなこと考えて読んでるわけじゃない。わたしが本から受け取るのは、いつも物語のエンターテイメント性による高揚感か、純文学作品のしみじみとした感慨なので。 でも、読書好きの人間に読書って意味あるの?って聞くのは、野球選手に野球って意味あるの?と聞くのと同じニュアンスだからやめたほうがいいと思った。 そういえばニュアンスってフランス語なんだってね。

 

あと、SPIの問題の文章にあった映画についての論文がとても良かった。「ロシア映画には、スクリーンにシベリアのナントカの幻影が付き纏う」的な。詳しいことは忘れたけれど、そういう感じ。 見つけたらまた書きます。

 

最後になりましたが、ブログ第1弾です。 グッドナイト、オペラ座の夜でした。