一過性の自殺願望

さまざまな事象が重なり「フラクタル」のことや「モンキーとエイプの違い」などを知ることになって、わたしは周囲に披露する知識が少し増えた。

 

知識が増えるほどに、わたしは「今現在」の世界観を失っていく感じがする…… 例えばフラクタル図形のヒルベルト曲線について、わたしの周囲の「現在世界」観の中ではそんな概念の存在はあまりに希薄だ。ヒルベルト曲線のほかにもコッホ曲線とかいうのものもあるが、今わたしの周りの世界観でこの概念を適用しているのは多分わたしだけ…… 「現在世界」の世界観の中に存在していない概念を思い浮かべているわたしは、もう、この世界観を失ってしまったも当然ではないのか……? 自分が今までおもっていた世界観の上に新しい知識が加わると、それまでの世界観は失われてしまう。そして、新しい世界観を作り上げる。と、いうことを、みんな当たり前だと思っているだろうけど、わたしはモンキーとエイプの違いとかフラクタル図形からそんなことを考えたらしいです。

 

だからわたしは毎回本を読むたび、インターネットにアクセスするたび、新しい知識を得て、世界観を作り直しているっぽいです。みんなもそうだから、感情が一過性のものだったりするし、ある時は死にたいって思って、ある時は死にたくないって思うんだと思う…… だから、わたしはよく「この前に死にたいって言ってたくせに」って言われるんですけど、そんなの当たり前じゃないですか。死にたいですよ、その時は。でも今は、新しい知識を取り入れて、世界観を組み替えてるんだから。そんなの変わるに決まってる。そんなね、意見の普遍性を求めるようなやつはね、無視しようぜ。そんなやつは何も進歩してないんだ、新しい知識を吸収できてないだけのつまんないやつ。 死にたいときは死にたい、死にたくないときは死にたくない。オールオッケーだ。人間が一過性自殺願望を持つことは、成長してる証です。そうおもってる……

 

 

 

とにかく人生がしんどくて友達にも会いたくなくて、ただギターを練習してる毎日だ…… ここ最近で漫然と見た映画・書籍を記録しておく。

 

「AMY」エイミー・ワインハウスドキュメンタリー映画。27歳。

 

「駅舎にて/ヴーダディヴァ・ボース」物書きだけが切なくてしんどくて良かった。

 

アメリ」とにかく面白かった。

 

 

最近考えさせられたのが読書の意義についてなんだけど、簡単に答えを知らないからこそ得ることが大きいからではないかな…… まあそんなこと考えて読んでるわけじゃない。わたしが本から受け取るのは、いつも物語のエンターテイメント性による高揚感か、純文学作品のしみじみとした感慨なので。 でも、読書好きの人間に読書って意味あるの?って聞くのは、野球選手に野球って意味あるの?と聞くのと同じニュアンスだからやめたほうがいいと思った。 そういえばニュアンスってフランス語なんだってね。

 

あと、SPIの問題の文章にあった映画についての論文がとても良かった。「ロシア映画には、スクリーンにシベリアのナントカの幻影が付き纏う」的な。詳しいことは忘れたけれど、そういう感じ。 見つけたらまた書きます。

 

最後になりましたが、ブログ第1弾です。 グッドナイト、オペラ座の夜でした。